2013-11-02

三連休の阿蘇

本日の阿蘇は、白みがかっており綺麗なお色。



10:45  阿蘇の空


阿蘇市内  中通り古墳群はブラックにお化粧されておりました。
古墳は毎年この時期に野焼きなのかな...?




中通り古墳群
(熊本県庁HPより)

古墳時代は、別の見方をすればヤマト政権による国土統一を行うための長い過程であり、
7世紀後半に最終的に成し遂げられたと考えられます。
このため、地方制度もゆるやかな支配の県主制・国造制から、国司・郡司として知られる律令官制による「国郡(評)制」へと移り変わっていきます。
   阿蘇谷北東部に分布する古墳群の内容から、
そこに葬られた豪族たちはヤマト政権から国造(くにのみやつこ)に任命されたようです。
古墳時代、現在の熊本県は、阿蘇、火(肥)、葦北、天草の4つの地域に分けられ、それぞれに国造が任命されています。
 国造はその地域の有力豪族であり、それぞれ「阿蘇の君」、「火(肥)の君」、「葦北の君」とよばれました(天草は不明)。
   阿蘇谷北東部の古墳群に葬られた豪族たちは「阿蘇の君」として、
古墳時代、現在の熊本県東部一帯に勢力をおよぼしていたと考えられます。


(Aso Pedia)

中通地区の北外輪山から南側へ突出した象ヶ鼻の麓に小高い山があり、その山は小嵐山と呼ばれています。この小嵐山の頂上から南側を見下ろすと、田んぼの中に盛土をした大きな築山のようなものがいくつも見られます。これが中通古墳群です。
 中通古墳群の中には、丸い形に盛土した円墳と、前方部が方形で後方部が円形の盛土を接合したような形の前方後円墳の2種類があります。現在、古墳としてはっきり形をとどめているものは、円墳8基と前方後円墳2基の計10基ですが、明治期の調査によれば14基以上があったとされています。熊本県は大切に保護して将来に保存するため、約1500年の歳月ほぼ昔のままの姿を残している古墳群を、昭和34年に史跡として指定しました。
 中通古墳群は5世紀から6世紀にかけて造られたものとされ、古代の阿蘇地方を開発し、支配した豪族「阿蘇の君」一族の墓であろうと考えられています。中心的なものは長目塚で、県内最大級の前方後円墳です。それを越える規模のものは県内に見当たらないため、豪族の勢力がいかに大きなものであったか想像できます。また、前方後円墳の出現は、大和朝廷の影響が及んだことを裏付けています。
 長目塚は現在、後円部と短い前方部をもつ帆立貝のような前方後円墳へと姿が変わっています。度重なる水害により河川の改修工事を行うことが決まり、昭和24年に前方部の大部分が切断されたためによるものです。
 改修工事の際には前方部の発掘調査も行われ、県内の開発事業による調査の第1号となりました。発掘調査が進む中、前方部の一番高いところに石室が見つかり、埋葬施設の全容が姿を現しました。被葬者は石室のほぼ中央に埋葬されていて、成人の女性と鑑定されました。更に、多数の副葬品も見つかり、勾玉・管玉・内行花文鏡・直刀等の貴重な品々は、長目塚出土品として市の有形文化財に指定されています。





ストーンサークルっぽい配列。意味深。。


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